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『イエス・キリスト 失われた物語』

キリスト教について、前回のエントリ(『イエス・キリスト 失われた物語』を読み始めたころの感想)のあと、すべて読み終わってからいろいろと誤解していたこと(例えば足は釘を打たれないとか)に気づきました。しったかぶりですみませんでした。

その物語では、最終的にイエスユダヤ人(上級役人)に処刑されたのではなく(むしろ議会に理解者がいた)、ローマの一人の役人(総督ピラトではない)の思惑によって有罪が言い渡され、ローマの極刑である磔刑にあいました。どちらかというと当時のユダヤ・ガリラヤ地方のヘロデ王は、イエスに興味を持っていました。

この本が真実とすると、イエスは世間では不幸と思われるような生まれであったが、大工であった義父に大切に育てられ、地球規模で修行したのちに祖国に戻った。霊的真理を説きながらユダヤ民族・近隣諸国がローマ支配から解放されることを目指していた。しかし直接的にはユダの裏切りのため、間接的(霊的)には武力行使による解放を目指したため、志半ばで失敗(イエスの処刑)に終わった・・・
というようにまったく聖書に書かれていないことが書かれています。というか、聖書が現在のような二十七書(新約聖書)になったのはイエスの死後300年も経ってから(四世紀末)で、様々な言語に加えてそんなにも長い時が経てば、時代時代の為政者に不都合な部分は捨てられ、都合のいい部分、とりあえず彼らに害がない部分だけが残されたことは想像に難くなく、聖書がなんともわかりづらい内容になってしまったのは仕方ないです。

エスが説いたことは現在のスピリチュアリズム(霊的真理)です。「恐れ遠ざけるべき神に代わって愛の神を説き、偶像崇拝と人身御供の愚を諭し、実在としての死後の世界の存在を説いた」(305ページ 訳者による解説より)。

結局、本質的な教えはシンプルで。なのに世の中たくさんの信仰・流派、多くの教祖がいます。それが争いの元、人々を迷わせる元なのではと思えてしかたないです。